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Shinichi Takeda

Shinichi Takeda

第005話

木村 欣三郎 物語

『カーニバル』

 

 話は前後するが、1930年1月16日(木曜日)に横浜港を出港した。木村欣三郎と彼の夢を乗せたモンテビデオ丸は、3月3日(月曜日)にサントス港に着いた。日本では、ちょうど桃の節句。きっと、暑かったに違いない。桃の節句が暑い時期にあたるブラジル。違和感この上ないだろう。木村欣三郎は、暑さに閉口していたに違いない。木村欣三郎のブラジルに対する第一印象はどうだっただろうか。3月というのに、猛暑である。日本では春一番が吹くような寒い時期。サントス港に降り立った木村欣三郎は希望や夢を持っていたというより、この暑さに閉口していたにちがいない。寒かったところから、47日間をかけ、ゆっくりと時差ボケの影響もなく、ブラジルに到着している。生活リズムが変わって大変だというようなことは、昔はなかった。ただただ、暑い。そして、食べ物。口にあったとは到底、思えない。しょう油屋とはいえ、都会育ちの木村欣三郎。暑い…の一言につきた欣三郎。 ところが、このモンテビデオ丸は、ブラジルのサントス港に到着する前に、リオに寄港している。そして、そこは、カーニバルが真っ最中だった。打楽器中心の旋律。町中がカーニバル一色。とはいえ、現在のような形式ではない。もう少し、小規模に大人しく、そして、お祭りムードに包まれていた。現在のリオのカーニバルは皆さんもご承知だろう。日本からきた人にとって、カーニバルは、興味深いに決まっている。もちろんのこと、今年も、学校の先生方も参加された。そう、サンバを踊り、しかも、そのチームが優勝。優勝チームの再演にも出場。なんともはや、力の入れ方が昔とちがう。しかも、FaceBookには、ばっちり、本人の写真が承諾も得られず掲載されていた。学校関係者の間では、ちょっと話題になった写真だ。肖像権は?といった問題も、初めて参加して優勝したという気持ちが、肖像権なんてと、うやむやになっていた。海外を飛び回る現代の日本人がこんな感じである。インターネットを介すれば、どこでも誰とでも話すことができる世の中だ。世界の情報を瞬時にキャッチし、そして、送信も気軽にできる時代に生きる人々と好対照な木村欣三郎。LINEやWHATSAPPの存在すら知らなかった、木村欣三郎。もちろん、乗船した船、モンテビデオ丸では、きっと、いろんな説明を受けていたに違いない。カーニバルの予備知識があったとはいえ、実際に見るのとは迫力が違う。当時彼は、二十歳。若い、やせ形の日本男子。言葉が分からなくても、身振り手振りで大丈夫だろう。言葉より伝える能力が大切だからだ。若い彼に伝える能力があったことは、容易に想像できる。日本の雰囲気とは、一風変わった光景に木村欣三郎はどのような感情を持っただろう。驚きともに、打楽器の旋律が体と共振したにちがいなない。日本のお祭を思い出したかもしれない。ブラジル風の太鼓に合わせた歌と盆踊りの決定版、それがきっと、木村欣三郎にとってのカーニバルだっただろう。しかも、音楽をこよなく愛した木村欣三郎である。カーニバルの渦に巻き込まれた、彼の姿を容易に想像できると思う。 日本人にとって、カーニバルといえば、ブラジル風のお祭だ。みんな無邪気にはしゃぐ光景は何ともいえず、初めてみた人でも楽しくなるものである。しかも、日本にも打楽器がある。そう、和太鼓。リズムも旋律も違うものの、打楽器のリズムが鼓動と共振すれば、だれもが何かを感じるはずである。当時のカーニバルは今のそれとは違うが、街中での賑やかさは、日本の祇園祭りを欣三郎は思い出していたに違いない。きっと、楽しく過ごしたことだろう。そして、ちょっとの気のゆるみが、所持金を使い込んでしまったかもしれない。

                                                            (つづく)

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