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Shinichi Takeda

Shinichi Takeda

木村 欣三郎 物語

第006話

『新しい生活』

 

 カーニバルの余韻を残し、モンテビデオ丸は、最終目的地であるサントス港にたどりついた。日本の桃の節句。1930年3月3日(木曜日)。この物語と直接、関係はないが、筆者の姪の誕生日でもある。その他、多数誕生されたことだろう。それはさておき、暑い生活の始まりである。彼は、日本に帰ることもなく生涯、ブラジルの地で暮らした。その大地、安全大陸に属する地震のない大地に根を下ろし始めた木村欣三郎。 当時の日本での平均的な生活はというと…。ここに書いてみることにする。東京の朝食はというと、白ご飯、みそ汁、アジの干物、佃煮、漬物である。お昼御飯はどうだろうか。やはり白ご飯、長ネギとわかめのぬた、そして、漬物。夜ご飯はというと、白ご飯にさんまの塩焼き、それに、おひたしと漬物。これが、一日の食事である。もちろん、一例にしかすぎない。ほかにも、納豆、煮豆、塩じゃけ、おから炒り、ぶり大根、シチュー、ほうれん草のごまよごし、お茶漬け(ところによってはぶぶ漬という)。まだまだ、バリエーションは豊富である。塩昆布、太刀魚の塩焼き、ところによっては、麦飯も食べていた。みそ汁だけでなく吸い物も飲んでいた。これらの食事は都市部の一般的な食卓に並ぶものである。木村欣三郎は都市部に住んでいたから、きっとこんなものを口にしていたに違いない。山間部などでは、夜ご飯が麺類で手打ちうどんを食べる習慣もあった。みなさんは、ご飯を炊くとき、どれくらいの分量をたくだろうか。一日に一回分を炊くのが普通ではないだろうか。この習慣は江戸時代にできたものである。ただ、東京では、朝に温かいご飯を食べる習慣があったのに対して、大阪では、昼に温かいご飯を食べる習慣があり、翌朝は、固い昨日の残りをお茶漬けにしたり、お粥にして食べていたのである。ところで、お米は良く研ぎなさいと言われたことはないだろうか。実は、これ、米に付着している糠をとるためである。だから、お米をよく洗いなさいと言われるのは、このためである。そして、そのとぎ汁は、糠が含まれるので、あくぬきに使われた。しつこい汚れをとるのにも使われた。そして、最後は畑や庭の木にまいて肥料となった。循環型社会がここにも見受けられる。循環型社会という言葉は、近年の言葉だが、ずっと以前から実践していたことをただ、もったいぶっていっているだけのような気がするのは、わたしだけだろうか。 ちょっと、この頃の米の炊き方を披露しておく。まず、分量だが、米一升に水一升二合を用意する。ご家庭でやっていることと比べてみると面白いと思う。米は良く研ぎ、火を釜の底全体に火の勢いを強めにしておき、沸騰後に5分後、火から下げ、10分間、蒸らして、櫃にうつして出来上がりである。白米といっても、大麦や稗、粟などの雑穀を混ぜてたくのも当時としては一般的であった。現在でも五穀米として売られているのは、健康のためだが、この頃生きていた人にとっては、珍しくない商品だということになる。 では、この頃の調理方法はどうだったろうか。まず、旬のものを食卓にだしていた。いまは、四季に関係なく、さまざまな食材が手に入ってしまうから、季節を感じることが難しくなった。どんな風に料理していたかというと季節の野菜、豆、いも、魚介類を生のまま、煮る、焼く、蒸す、茹でると当時も今も同じだった。 当時の日本人が好んで食べたのは、やはり煮物。一度に大量に作ることができるからだ。とくに野菜やイモ類の鍋物。作っておいて何日間も食べ続けていた。調理は水を足して温めるだけと簡単で、時間短縮にもなる。もちろん、だしは、鶏肉や魚介類をつかっていた。 焼く場合は、直火。油は現在のように使っていない。蒸したり、ゆでる方法は現在と変わらない。ただ、この調理は日本独特の方法といってよい。 いままで書いてきてわかったと思うが、サラダを食べていた習慣がない。それよりも漬物を食べていた。みそ汁は食欲を増すし日本の味だから、ブラジルの食卓にのぼっていることが推測できる。しかも、事実である。日本食のベースである煮物。これにはしょう油、砂糖、酒、味噌で調理していた。ブラジルでは、しょう油や味噌は当時、なかった。しかも、野菜がほとんどなかった。野菜を作ったのは、日本からの移民たちだからだ。焼くのには油を使わず直火だから、きっとこの方法で料理していた。ただ、魚が簡単には、手に入らない。奥地に入った日本からの移民は、川魚を釣って食べていたに違いない。蒸したり、茹でたりする料理はしただろうが、手間がかかるので、それほどしたとは思えない。揚げたり炒めたりすることは当時としては珍しかった調理方法である。揚げた場合、煮る工程が入ることが多い。漬物はほとんどが塩漬け。つまり、ブラジルでも容易に実現できたと推測ができるだろう。もちろん、味噌、しょう油、酢、酒粕につければ、レパートリーも広がるが、そんなものが当時のブラジルにはなかった。 では、1930年代の日本の台所はどのようなものだったのだろうか。木村欣三郎が生活していた時代の台所はというと、薪や炭を使っていた。ということはかまどが各家庭にあったということになる。水は、井戸からとるのが一般的であり、水道が使える家庭は少なかった。とくに日本の調理方法では、水を使うことが基本であり、この水を台所まで運ぶことが重労働であった。このスタイルがブラジルにも伝わったのである。 というわけで、当時のブラジルに移住した人たちは、このような生活をしていた。それが、ブラジルに渡り、生活スタイルを変えることができるだろうか。だんだんと変わってくるとは思えるが、なかなか故郷の味を捨てることはできないだろう。新しい味に慣れることも簡単にはできない。筆者自身、ブラジル在住、二十年を過ぎたいまも、ブラジル食に慣れていない。年を経るごとに日本食が恋しくなっている。 木村欣三郎は、都市部に住んでいた。農村部ではない。しょう油屋で育った彼にとって、彼の生活スタイルは、きっと、農村部のそれとは違う。しかしながら、かまどでご飯を炊き、煮物をおかずとして食べ、みそ汁を飲みながら食欲を増し、漬物などの副食が添えられていた食事に慣れ親しんでいたはずである。それが、ブラジルという暑い大地に根をおろし始めた。彼の生活スタイルが変わるとは思えない。ただ、続けるためには、味噌や醤油をなんとかしなければならなかった。

                                                            (つづく)

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