第002話
戦後最後の花婿移民奮戦記
02 この世に生まれた私
私が生まれた時のお話。
正直な話、私の父と母の馴れ初めも知らないし、
いつ結婚したかも知らないのです。
では、わたしの『育児日記』
そして、あの『母子手帳』から
手がかりを拾ってみることにします。
育児日記より抜粋
・生まれるまでの記録
12月14日午後10時半(父による記述です)
友子(何を隠そう私の母です)は階下の分娩室、
西野と斉藤の姉が、三号室
友子の床に並べて機械的に素早く
小さな赤ん坊用の床を準備する。
俺は傍らに毛布にくるまって横になり、
期待と俯瞰を持って此の床の主の来るのを待った。
・出生の日
昭和39年12月14日
時刻:午後11時10分
命名:真一
その由来:
常に真理を深究し真実に忠実であるように。
両親の願い:
父:健康で神経の太い心の優しい子になるように。
母:(1)成せば成る成さねば成らぬ何事も。
(努力すれば何事も成功する)
(2)青山元不動 白雲自ずからゆうゆう
(自分の意思を硬くしてれば、他人の中をゆうゆうわたれる)
・生まれた時の記録
体重:36kg
身長:51cm
胸囲:33cm
頭囲:33cm
生まれた場所:東京都大田区
お産の状況:
13日 10:00p.m. 検診、子宮口内側一指開孔、
14日 04:00a.m.~08:00a.m. 10分間隔10秒間の陣痛
08:00a.m. 朝食 パン三切、牛乳二本、煮たもの
08:00a.m.~04:00p.m. 5分間隔20秒間の陣痛
04:00p.m.~06:00p.m. 3分間隔30秒間の陣痛、晝及夕食攝らず
06:00p.m.~08:00p.m. 1分間隔30秒間の陣痛
08:00p.m.~11:10p.m. 1分間隔1分間の陣痛
08:30p.m. 子宮口の開きが狭く陣痛ノミ激しいため帝王切開に決定
奥村先生に電話
10:00p.m. 奥村先生 千葉より到着
10:50p.m. 手術開始(全身麻酔)
11:10p.m. 誕生
11:30p.m. 手術終了 奥村先生 帰宅
12:00p.m. 友子 意識回復
・両親の年齢
父 弘:32歳2.5ヶ月
母 友子:31歳11.5月
・家庭状況
住所 東京都荒川区日暮里町
国電日暮里駅より約3分 木造モルタルのアパートに住む
下3軒、上3軒、6軒一棟の二階、3疊、4疊半南向き
父 弘 港区K設計事務所に製図課長として勤務
母 友子 足立区北千住 I病院に産婦人科医師として勤務
ここまで、書いて、わかったと思いますが、かなり父は几帳面に書き記しています。
もちろん、初めての子育てということもあるでしょうが、非常に細かく記されています。
しかも、生まれたとき、わたしは、大きかったです。当然ながら、生まれる前も、
おなかに買い物かごがのっかるくらい大きかったといわれました。
いまでこそ、あまり、目立ちませんが、当時としては、かなり大きな
赤ちゃんだったのです。もっとも、母は、小柄だったので、なおさらだったと
思います。そんなわたしを初めて授かったのがこの父と母でした。
とても、大事に育てられたのをいまだに、覚えています。ただ、のちのち、それが
よくなかった…と言われました。
愛情を注いで、ガラスの人形を抱くように育ててしまったのは
間違いだと言われたのは、ずっと私が大きくなってからのことです。
わたしの両親の教育観は
自分を育てるとき、間違っていたことに気付くのにだいぶかかったのです。
そのことについては、また、別な機会に記述したいと思います。
父の育児日記は、まだまだ、詳細が続きます。
それについては、またの機会に書くことにして、
今日は、ここまでにしておきます。続きは、また、編集して、ここに、書きたします。
というわけで、少々、付け足します。
本名は、少々、気がひけますので、控えさせていただきます。
・出産を祝ってくださった方々の控え
お祝いに来てくださった方々
12月15日 朝 H. すゞ 様
昼 O. 良太郎、扶美枝 様
12月16日 昼 武田 英 O. 良太郎、扶美枝 様
西野 たけし 様
12月17日 朝 H.沙千代 様
午後 H.総男 様
12月29日 I病院 看護婦長
12月30日 家主 S. 俊子 様
お祝いにいただいた品々
西野御夫妻 アマンドの焼西菓子
靴下
H.すゞ おむつ 六反
田中様 どてら綿入り、セーター、
カステラ一箱
斉藤様 着物綿入り、ちゃんちゃんこ
ベビー服一式(2~3ヶ月児用)
武田 英、O.様
カステラ一箱、果物缶詰一箱
K設計製図課
オモチャ2点
K設計事務所 御祝 ¥2,000
I病院看護婦有志
毛糸
I病院院長 御祝 ¥2,000
I病院よりお歳暮兼 味の素箱詰 一箱
I病院看護婦長及御見舞(果物、バナナ)
家主 S. 俊子様
為政様 タオルケット
千楽部長 ベビー服セット
三浦 清 おぶりひも及掛布団
ざっと、こんな感じで記されています。
当時の世相がわかりますね。御祝に2千円ですから。
給料がどれだけだったが、想像できると思います。
そして、おむつは、紙おむつではないですよ。布おむつです。
今風でいえば、再利用可能おむつでしょうか。
汚したのを洗うのは、とっても大変ですよ。
それだけに、我が子に対する愛情も注がれたことと思います。
ここまで、書いていて、当時の寒さ、そして、はじめての我が子を
授かった両親の情景がなんとなくおぼろげながら、見えてきたような
気がします。
このあとは、私が生まれて『一日目』の内容へとうつっていきます。
一日目( 12月14日 月曜日 )
元気よく精いっぱい泣きますね。 Yes
皮膚がまっかで、みずみずしいですね。 Yes
腕や足をからだにくっつけるように曲げて、よく動かしますね。 Yes
朝方四時より微弱なる陣痛、朝食にパン三切れ、牛乳二本
痛みの毎に吐き気を催すので、昼食を摂らず
午後六時頃より激痛に変わるも子宮孔一指半
八時 斉藤の姉と相談の上、切開に決定、準備
八時三十分 西野夫妻 到着
十時四十分 奥村先生 到着
十時五十分 奥村先生 執刀
斉藤和子先生 助手 斉藤裕先生 麻酔 西野光子先生 賛助
武田 弘 立会
手術 開始
十一時十分 誕生
直ちに島筒助産婦さんの手で初湯
二階三号室で眠る
十一時三十分 手術完了
十二時 麻酔さめる
これが、わたしの栄えあるこの世に生まれた日。私は全く覚えていません。
ただただ、泣く、寝る、乳をのむの繰り返しだったにちがいないです。
そう、ほかでもない、ここは東京都大田区の病院の一室でした。
あ、この父の育児日記を読んでいるうちに
私はある間違いをずっと犯していることに気づきました。
それは、わたしの生まれた日を12月14日の『木曜日』と思い続けていました。
でも、父の日記では、『月曜日』。これは、大発見です。
それでは、二日目をどうぞ。
二日目( 12月15日 火曜日 )
乳首にうまく吸いつきますね。 Yes
胎便はできましたね。 Yes
睾丸は陰のうの中におりていますね。 Yes
泣いたとき顔がゆがみませんね。 Yes
むずかったりせず、すやすや眠っていますね。 Yes
それでは、また。次回まで、お待ちください。